2020年7月Vol.90 サクッと小噺
※小噺は過去分を随時アップしております。内容に時差がある場合もありますが、是非ご覧ください。
いつもピーディーアールをご利用いただき誠にありがとうございます。
お客様からご注文をいただくと、私はとてもとても嬉しいです。
なぜこんなに嬉しいのか? お金をいただけるから、はもちろんあるでしょう。しかし、お客様からいただくお金は、たとえば宝くじで当たるお金より嬉しいです。たとえば銀行の利息でもらうお金より嬉しいです。たとえば(今はもらえませんが子どもの頃は)お年玉としてもらうお金より嬉しいです。金額が同じなら価値も同じハズなのに、
何かが違う。何が違う?・・・私は時々こんなことを考えるのですが、先日ある人類学の本で「答え見つけたかも?!」と思う知見を得ました。その本に書いてあったことをご紹介します。
むかーしむかし、海近くの集落に住む人々は(以下、海人)魚をとって暮らしていました。山中の集落に住む人々は(以下、山人)木の実をとって暮らしていました。ある日、海人は魚を取り過ぎて余ってしまい、山人は木の実を取り過ぎて余ってしまいました。そして、すこし遠くに、自分たちとは別の食べ物をとって生きている人々がいることを知りました。海人は山へ向かい、山人は海へ向かい、彼らは出会って、お互いの過剰取得物を交換しました。食べ物のバラエティが広がって、海人も山人も幸せになりました。
これが、今まで考えられてきた「物々交換」ひいては「経済」の発祥物語でした。しかし、先日読んだその本は「動機と行動が逆」と論じます。物が余ったから交換したのではなく、交換したいから過剰にとったのだ、と。そして、人間は交換する事そのものが楽しいのだ、と。
その本は続けます。「交換」とは、自分と相手がいなければ成り立ちません。交換に応じるとは、相手が自分の存在を認めてくれたことでもあります。少し話が脱線しますが、物の交換ではなく、会話の交換について例を述べます。精神病を患う患者さんたちは、「私は日本人です」「あなたは日本人なんですね」「私は女です」「あなたは女なんですね」という会話をするだけでも、病気の快復に役立つそうです。全く無意味な会話に聞こえますが、自分が言ったことを繰り返してもらう=自分の存在を認めてもらう、だけでも、人は嬉しいのです。そういえば、精神病の患者さんに限らず、カップルの会話も似たようなものかもしれません。「楽しいね」「うん、楽しいね」「美味しいね」「うん、美味しいね」のように。
また、物が移動を続けるだけで、何も生み出さない交換の例について。ボールを壁に向かって投げて、跳ね返ってきたボールを受け止める。これは「運動」です。
しかし、ボールを誰かに向かって投げて、誰かが受け取ったボールを投げ返してくれたら、それは「遊び」や「無言の会話」に成りえます。だからこそ、キャッチボールは父子のコミュニケ―ションの象徴のように考えられているのでしょう。たとえ何も話さなかったとしても、キャッチボールを続ける2人の間には、何かしらの交流が生まれます。なぜならば、相手がいなければ、成立しない行為だからです。物理的な生産物は何も生まれていないのに、ボールを交換し続けるだけで、人は「楽しい」のです。
さて、冒頭の話に戻ります。私が、お客様からご注文をいただいて大変嬉しいのは、「投げたボールが返ってきた」と感じるからではないかと思うのです。たとえば「私が作った歯ブラシどうですかー?」と問いかけたら、「いいね!」と返ってきた…これがご注文ではないでしょうか。ご注文を承った時、いただいたのは「お金」だけではなく、「キミの働きを認める」という認証です。お金と歯ブラシを交換しただけではないのです。このように考えると、ご注文が、宝くじや利息やお年玉より嬉しい理由がストンと腑に落ちます。
仕事を一生懸命していれば、ご注文を承ったらとても嬉しいです。しかし実は、仕事の手を抜いたとしても(私は抜いていませんが)、ご注文が来たら嬉しいという人が大半だと思います。それは「交換(自分と相手がいなければ成立しない行為)が楽しい」という、人間の性ではないでしょうか。
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サク
歯ブラシ
シャカシャカ トルネ