ちょっとした便利と、受け入れられる不便
コミュニケーションセンターの神戸です。
昨年は震災があって、全ての日本人が自分たちの生活の有り様について考える機会をもったことと思います。
私も例外ではなく、そんな私の最近のお気に入りフレーズは、ズバリ「受け入れられる不便」です。
新たな技術のおかげで効率がよくなったこと、以前にはなかったサービスのおかげで昔と比べて便利になったこと、科学の発展で我々の生活が快適になっていることは間違いありません。
でも、どこまで便利になると完全に満足できるのか。
きっと1人にドラえもんが1機(猫型ロボットですから、匹と数えるべきでしょうか?)ずつ割り当てられても、我々は便利に満足することはないんじゃないか。
ちょっとした便利の裏には多くの非効率があって、例えばハイブリッドカーは燃費が良いけれど、多くの資源を使います。
便利の追及が進歩を生むのは間違いありませんが、正直そこまでする必要がない場合もあるのではないでしょうか。
そんなときのために、日頃感じる「ちょっとした便利」について、これは自分にとって「無くなってもよい便利」≒「受け入れられる不便」なのか、それとも「必要不可欠な便利」なのか自問をするのですが、これが意外と「受け入れられる不便」が多い。
例えば、電気ケトルは無くてもやかんで何とかなるので「受け入れられる不便」、エアコンのフィルター自動掃除機能やコンビニATMも無ければ無いなりに何とかなるので同上、光回線はまあ諦めても良いけどインターネットは「必要不可欠な便利」などなど。
便利を十分享受しつつその便利が失われた環境も日頃想像しておくと、何というか、心にゆとりが持てる人間になれる気がいたします。