告白

こんにちは。入社2年目の櫻井です。

 
私は本が大好きです。
今ではあまり信じてもらえませんが、10歳くらいまで、私は極度に内気で引っ込み思案でした。いつも一人の世界に閉じこもって本を読んでいました。いつしかそれなりに自己主張もできるようになりましたが、それでも本の世界は大切でした。
 
昼は教科書に挟んで本を読み(先生ごめんなさい)、夜は布団の中に電気スタンドと本を持ち込んで本を読んでいました(お母さんごめんなさい)。村上春樹でセンチメンタルに浸り、遠藤周作で号泣し、夏目漱石で人を学び…。子どもの頃はそうだったんです。しかし、やがて、本にそれほど時間も熱意もかけられなくなりました。今でも本は読みます。しかし心揺さぶられる程ではありません。私は変わってしまったのかしら…?
ちょっと悲しいなぁ、と思っていました。
 
ところが先日、出会ったんです。心揺さぶる強い本に。数年ぶりの、この快感に。

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アウグスティヌス「告白」はご存じですか?
彼は4-5世紀のローマに生きた(生まれは北アフリカですが)、キリスト教神学者・哲学者・教父です。教義をめぐっていろんな解釈がうまれ、何が正統なのかわからなくなったキリスト教をまとめる事に貢献した人です。でもまぁ、そんな事はいいんです。私が感動した理由はそこじゃありません。
 
「告白」は、アウグスティヌスが神に語りかける形式をとっています。
「僕はもともとキリスト教徒じゃなかったんだ。いつも真実を求めて悩んでいた。勉強したり、他宗教を信仰したり、恋をしたりしてさ。僕は気づいてなかったけど、あなた(神)は僕を導き続けてくれてたよね。あなたのもとに来るよう、ずっと呼びかけてくれてたよね。どーもありがとう。」
 
簡単に言ってしまえばこんな内容です。さて、“神の導き”って、具体的に何でしょう?
私が好きなのはここです。アウグスティヌスは、神の声を聞いたとか、天使がやってきたとか、そんな奇跡的な話はしていません。いつも誰かの話に感動したり、誰かに教えられたり、誰かを愛したり愛されたりして、結局少しずつ神のもとへ進んでいます。「告白」は神への信仰告白という形式をとっていますが、その内容は、彼が今まで出会った人達との関わりの記録です。
 
神は空の上かもしれないし、個人の内かもしれないし、そこんところはわからない。でも、神の“働き”は、人と人との関係の中にあるんだなぁ、という気がしました。私自身はキリスト教徒ではないし、神がいるかいないかの議論もあまり興味はありません。ただ、何か大きな力があるんだとしたら、何か善いものがあるんだとしたら―“私”と“あなた”の間にいてほしいと思います。
 
21世紀、日本のある図書館で、私は「告白」を読んでいます。時々、ほんの一瞬だけ、時空を越えます。17世紀もの時間と長い距離を越えて(名古屋からローマまでは何kmかしら)、私はアウグスティヌスと対面します。腕を精一杯伸ばしても、彼の衣に指先が触れる程度…でもその瞬間、全身が痺れます。ゾクリ。…ちょっと恋に似ているかもしれません。
 
人間に文字があってよかったです。書きとめる習慣があってよかったです。翻訳できる人がいてよかったです。活版印刷が発明されてよかったです。更に印刷術が発達してよかったです。人間はなかなかやります。
 
来世も人間になれるとは限りません。今のうちにたくさん読もうと思います。