寺院
皆さんこんにちは!本日のブログは2年目の櫻井がお送りいたします。
ワット・ロカヤスタ 青空の下に寝る巨大な涅槃像 |
ニヤリ いい表情でしょう? |
ワット・ポー 金ぴかの巨大涅槃像。 寺院はとても立派だが、この体サイズに この家では、まるでカプセルホテルだ。 |
この前のお盆休み、会社の先輩がタイに行ってきました。タイ大好きな私は興奮してしまい、頼まれてもいないのに勝手にガイドブックを作ってあげました。イチオシのWat Lokayasutha(ロカヤスタ寺)にも足を運んでくれたそうで、とっても嬉しいです♥
今日は、私が好きな寺院について少しお話させてください。
【仏教寺院】
世界中で一番好きな仏教寺院がWat Lokayasutha(ワット・ロカヤスタ)です。タイのアユタヤにあります。アユタヤはビルマ軍(現ミャンマー)に破壊された町です。今では普通に人が住んでいますが、破壊された寺院群はそのままになっています。首のない仏像が並び、体から切り離されて木の根に絡み包まれた仏の首なんかもあります。変に修繕もせず、取り壊しもせず、廃墟は廃墟のままに残された寺院はとても美しいです。
その中でも破壊の限りを尽くされたのがワット・ロカヤスタです。壁も天井もありません。巨大な涅槃(ねはん)像が一体、どーんと寝ているだけです。雨に打たれてだいぶ剥げています。しかしニヤリとした表情が、なんとも素敵なんですねぇ。穏やかで、かつ不敵な
笑みです。この寺院はロケーションも抜群で、町の中心や他の寺院から少し離れたところにあります。大通りから路地に入って、しばらく進むと突然現れるのでビックリします。こんな所で寝ているお姿は、本当に気持ちよさそうです。
同じ涅槃像では、バンコクのWat pho(ワット・ポー)が有名です。ここの仏は金ぴかピカピカで、もちろん豪華な家に住んでいて、ハンサムな余裕の表情で横たわっています。嫌いじゃないけど、感動もありませんでした。これでは寝返り一つ打てないな、と感じただけです。
かたや豪奢な家の持ち主で、かたやホームレス。かたや光り輝く御身で、かたや雨風で剥げた体。それでも、ワット・ロカヤスタの仏に魅かれます。空と風と一体になっているようで、まさに悟りの
境地にいるように見えます。
【キリスト教寺院】
聖フランチェスコ大聖堂 豪奢でも精巧でもないが清らかに美しい |
まるで空に浮かんだ都市アッシジ |
フラスコ画 イエス・キリストと同じ聖痕 (イエスが磔にされた時に受けた傷) をさずかるフランチェスコ |
世界中で一番好きなキリスト教寺院はBasilica Papale di San Francesco(聖フランチェスコ大聖堂)です。イタリアのアッシジにあります。聖フランチェスコは「清貧」の権化のような人で、ローマカトリックが富と権力でおかしくなっている時代に、質素な禁欲生活を貫きました。しかし世渡り上手なところもあって、教皇庁に従順な態度を示したために権力からも認められ、信者も順調に増え、一大組織になったそうです。それでも「清貧」から離れようとはしなかったフランチェスコは本物ですね。
それまで教会内部に描かれる絵はモザイクが主流でした(字が読めない人が多かったので、聖書や聖人の話を絵で説明するんです)。モザイクだとどうしてもお金や時間がかかるし、出来上がり
の雰囲気も豪華になります。フランチェスコはそれを良しとせず、
フラスコ画を採用しました。フラスコだと壁が乾く前にサッと描かなければならないし、お金もそれほどかからないし、出来上がりの雰囲気も(モザイクよりは)質素になります。好みの問題ですが、私はフラスコ画の方が好きです。余談ですが、続くルネサンス時代のフラスコ画の発達に、フランチェスコも一役かっているかもしれません。
アッシジは高地にある小さな城塞都市で、場所によっては、空に浮いた地にいるような、まるでラピュタ
のような、そんな感じがする街です。そんな地にある聖堂の姿は、ただただ美しいんです。フランチェスコは鳥にも説教をしたという逸話があって、「東の聖人みたいなところがあるな」と思っていました(例えば仏教では動物への説教はお約束ですが、西の聖人ではあまり聞かない話です)。しかし実際にアッシジを訪れてみて納得。「なるほど、人より鳥の方が多い。」
のような、そんな感じがする街です。そんな地にある聖堂の姿は、ただただ美しいんです。フランチェスコは鳥にも説教をしたという逸話があって、「東の聖人みたいなところがあるな」と思っていました(例えば仏教では動物への説教はお約束ですが、西の聖人ではあまり聞かない話です)。しかし実際にアッシジを訪れてみて納得。「なるほど、人より鳥の方が多い。」
私は特に宗教的な人間ではないけれど、宗教を学んだり聖地を訪れたりするのは好きです。宗教は人間の弱いところも強いところも包括していま
す。宗教自体は徹底的な理論で構築されていますが、それは非理論的な人間のためにあります。私はきっと、宗教における「神」の側より「人間」の側の方に興味があるのでしょう…。