スタッフのひとりごと
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谷川あかね篇|1995年1月。P.D.R.を知る。 2009年06月26日

人生の図面に、1本の線を引いては消し、また引いては消す。

そんな繰り返しでした。

再び、求人雑誌をめくる日々が続きました。

設計図を描いていくのは、なかなか難しいものです。

どの会社の情報を見ても、一長一短でなんだかピンとこない。

 

そんなとき、求人誌で、PDRの求人広告を目にしました。

というかイヤでも目に止まってしまったのです。文字だらけの広告でしたから。

隅から隅までギッシリ文字が書かれている。

「伝えたい」という思いがそこにあるような気がして、

思わず読みはじめてしまいました。

社長が会社を興したときのこと。

保守的だった歯科材料販売の世界に通信販売のシステムを導入し、

価格破壊を起こしたこと。

品質クレームが頻発し、歯を食いしばりながら品質向上を実現したこと。

安く商品を提供するために、単身海外に渡り取引先探しをしたときのことなど、

さまざまな思いがそこには綴られていました。

 

そして、最後にひとこと。

「私と一緒に会社を切り盛りしてくれる方を募集します」

 

一緒に会社を切り盛りする……

小さな会社で得られていた満足感を、私は思い出していました。

 

会社説明会に参加し、社長にお会いして話を聞き、実際に会社を見学に行って、

私はどうしても入社したいと思いようになりました。

 

細かなことはどうでもよかったのです。

なにか「熱」のようなものに惹かれたのだと思います。

それは熱気かもしれませんし、情熱かもしれません。

端っこでポツンと仕事をするのではなく、熱の真ん中で仕事ができる。

そんな期待感がPDRという会社にはありました。

 

「もし不採用なら、パートで採用してください」とまで言ってしまっていました。

熱が伝染したのでしょうか。いま思えば私も相当熱くなっていました。

 

入社したいと思っていたのはいいのですが、不安がなかったわけではありません。

じつは、資格に「要普免」とあったのですが、私は立派なペーパードライバーでした。

そんな小さなこと、と笑わないでください。

クルマの運転をしなきゃいけないのが、本当に不安だったんですから。

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谷川あかね篇|1993~1994年。P.D.R.に出会うまで(2/2) 2009年06月26日

それからは、派遣をやり、アルバイトをやり、

いろいろな仕事を経験してみました。

 

男女雇用機会均等法があるものの、

均等に働ける職場なんてほとんどないな、というのが実感でした。

どれだけ頑張っても、けんめいに仕事に打ち込んでも、

最後の肝心なところはキャリアの社員が持っていってしまう。

意見があっても通らない。意志があっても受け入れられない。
 

派遣やアルバイトだけでなく、

正社員としてある一部上場企業にも籍を置きました。

 

企業規模からいっても、一生を捧げられる会社だと思って入社しました。

しかし、その会社も結局は1年ちょっとで退職してしまったのです。

 

たしかに普通に仕事をしていれば、

残業することもなくアフター5を楽しんだりできるでしょう。

愛想よく入力作業をこなしていれば、

余計なプレッシャーを持たずに仕事をこなしていけるかもしれません。

 

でも、それは結局

「アテにされていない」ということではないでしょうか?

 

知らず知らずのうちに、安定を求めてしまっていた。

この就職に失敗した最大の原因は、ここだと思っています。
 

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谷川あかね篇|~1993年。P.D.R.に出会うまで(1/2) 2009年06月26日

 ~時は遡って、2002年の話です~

私は、谷川あかねと申します。

あまり年齢は言いたくないのですが、仕方ありません。38歳です。

 

20代のはじめ、短大を卒業して入社したのは、大手上場企業でした。

ええ、普通のOLです。

仕事に生きがいを求めていたわけでも、人生を模索していたわけでもありません。

だから、いい人が見つかった時点で、何の迷いもなくすぐ結婚しました。
 

寿退社した後、

結婚相手の実家が事業を営んでいましたから、私も手伝うことになったんです。

事業といっても中小企業です。

でも、小さな会社だからこそ、前の会社にはない手応えがありました。

任され感があるんです。自分が必要とされているというか。

 

もちろん、経営者じゃありませんから、

実際に会社を動かしているわけではありませんが、

自分の手がける仕事の一つ一つで会社が変わっていく。

そんな充実感を得られた毎日でした。
 

ただ、私は離婚してしまったのです。29歳のときでした。

大きな転機です。描いていた未来予想図が真っ白になってしまったのですから。

 

強く思いました。

これを機に、自立した人生を歩んでいかなければならない。

新しい人生設計図を、これからは自分の手で描いていくのだ、と。
 

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谷川あかね篇|はじめに・・・☆ 2009年06月26日

1995年12月、仲谷がだした自伝とも言える求人広告を見て

応募をしてきたのが谷川あかねでした。

 

 

文字だらけの「ハランバンジョー」と名付けられた求人広告を読み、

心打たれた彼女の人生のひと幕を、【番外篇】として掲載します。

 

なんて書きましたが、実は、今からご紹介するのは

2002年5月に求人情報誌に掲載されたP.D.R.の求人広告です。

 

 

仕事を頑張りたい、人間を磨きたい、

頑張っているみなさんに共感していただける話ではないでしょうか。

ぜひ、楽しんで読んでくださいね。

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はじめに|「ハラジョーな人生」とは? 2009年06月18日

 

今から15年前の話です。

とある就職情報誌の見開きにある無名の会社が求人広告をだしました。

 

 

誌面にはまるで誰かのインタビュー記事のように文字がビッシリ。

「日給xxxx円!」や「*****が私のやりがいです」といった

読者の目をひくメリットや社員の仕事インタビューが載っているわけでもない。

 

ただ、誌面のど真ん中にひとりの男性の写真が貼られ、

右上にたったひと言。

 

「そんなに、ハランバンジョーな人生でしょうか」

 

羅列された文字には創業者である仲谷公司(当時35歳!)の

会社設立までの経緯と苦労が(結果的に)コミカルに綴られています。

 

1995年、これがP.D.R.が初めて本腰を入れて出した求人広告でした。

 

まるで小説のように書かれた仲谷の創業物語がきっかけとなり、

初めてP.D.R.は知人以外から仲間を迎えました。

そうして私たちはその後も採用を続けて今に至ります。

 

今、P.D.R.には社員とパートさん含めて約60名以上が働いています。

ここでは当時の求人広告に書かれた仲谷の創業物語、

そして1995年以降に続く物語を随時ご紹介していきます。

 

この瞬間に続くP.D.R.の過去の挑戦や戸惑い、

会社沿革以上に会社がまるごとわかってしまうはずです。

 

お楽しみに・・・

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ハラジョーな人生|1978年〜 2009年06月18日

 

(語り、仲谷公司)

 

特に、自分が特別だと思ったことはありません。

ただ、振り返ってみるとほんの少しだけ、楽天的だったかもしれません。

 

高校を卒業して専門学校に行きました。

歯科技工士の資格を取ったのです。深い意味はありません。

歯医者さんはお金持ちが多い。

だから、そういう関係の仕事に就けば儲かると思ったからです。

でも、ある歯医者さんに言われてしまいました。

 

「歯医者も技工士もしっかり勉強しないとだめだよ」と。

もっと勉強が必要だと感じた私は、専修科過程(すでに免許を持っている人が集まる講座)

にまで進みました。 

でも、どうやら技術だけでは食べていけない世界みたいで、世渡りも重要。

でも私は、そんな世渡り上手じゃありません。

 

そんな時、講習会の話に興味を持ちました。

歯医者さんや歯科技工士向けの講習会があるのですが、それは例えば

『1回の授業料3万円。1コース10回の授業。定員30名』というモノでした。

1回3万円、10回で30万円、30人で900万円…こりゃオイシイ!と思ったのですが、

権威ある有名な先生じゃないと生徒は集まらないそうです。

あいにく私は無名の男です。きっと生徒は集まらない。

そこで、私は思ったのです。有名になればいいのだ、と。

 

私は、技術ノウハウを盗むために、業界では有名な先生の所へ押しかけました。

「給料はいらないから雇ってくれ」。

雇ってくれたのはいいのですが、

残念なことに、本当に給料は貰えませんでした。

でも、しょうがありません。

これもカリスマになるための厳しい修行だと思い、頑張りました。

 

1年後、私はカリスマになることは諦めました。

カリスマは、努力してなれるものではないのですね。

 

その後、母校に舞い戻りました。

歯科業界紙への投稿などの仕事に携わり、

そこで材料や技術の記事を書く日々を送ることにしたのです。

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ハラジョーな人生|1985年〜 2009年06月18日

 

ふと気がつくと、私は24歳になっていました。

かわいがっていた後輩までもが、次々と就職を決めていきます。

中にはオーストラリアやドイツ、

スイスの会社に就職した羨ましいヤツもいました。

 

自分のチカラでみんな稼ぎだしたんだなあ…

ここで何もせず突っ立っている自分に、

苛立ちを覚えたのは言うまでもありません。

 

歯医者さんのところに、よく材料屋さんが来ていました。

「先生、今回だけでいいですから、買って下さいよ。頼みますよ」

そうすると、大抵の先生は買ってしまうんですね。

 

(お願いするだけでいいのか、カンタンじゃん。やってみようか)

そんな関係に至るまでの、歯医者さんと材料屋さんの間の信頼関係などは

全く見えていなかったんですね。

 

そして、1984年。25歳で材料屋さんになりました。

社名は太平洋研究開発を縮めて『太洋研開』です。

 

おかしな事があったものです。

せっかく材料屋さんになった私に、問屋が商品を卸してくれないのです。

どうやら、材料屋組合というものがあって、

そこに属していないと問屋さんが取引きしてくれないようなのです。

組合に入ろうと思ったところで、実績や推薦人がないと入れてくれない。

 

なんだ、それ?

 

取引先の先生が裏工作をして組合に話をつけてやると言ってくれましたが、

オモシロクないので断りました。バカヤロ。

 

問屋を通さずに、自分でメーカーから商品を買いつけることにしました。

でも、一流メーカーは、どこの馬の骨かもわからない私には商品を売ってくれません。

ネームバリューはないがモノは良い、そんなメーカーを探しました。

問屋を通さずに仕入れるから安く売れるし、なんとか商売としてやっていけました。

 

当初立てた『一ヶ月の売り上げ50万円・荒利20万円』は、開業3ヶ月で達成。

で、次は『荒利50万』を目標にしたのですが、いくらたっても達成できない。

1日中車を運転して歯医者さんや技工士さんに営業を掛けたのですが…

おしりが痛くなっただけで、何の成果も得られない毎日が続きました。

 

結局、荒利50万円までには2年かかりました。
 

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ハラジョーな人生|1987年〜(1/3) 2009年06月18日

 

寝るか仕事をしているかの私。

そんな時、懇意にしていただいていた方からひとつの情報を得たのです。

 

「アメリカでは消耗品の50%が通販だぞ」

 

その人は海外の大手歯科材料店から商品を輸入して、

材料屋に問屋を通さず直接卸せ、とアドバイスしてくれました。

つまり、輸入代理店になれと言うのです。

さらに、日本人がアメリカでやっているという小さな商社まで紹介してくれたのです。

どうしようか迷いましたが、結局やめました。

 

いくら安いからと言って、組合まで作って自分たちの身を守る保守的な日本の材料屋が

得体のしれない私から、アメリカの材料を買ってくれる保障などどこにもありません。

輸入したはいいが、在庫ばかりが増え続けることにもなりかねない。

私これでも、ここぞという時は、石橋を叩いて渡るタイプなんですよ。

 

しかし、通販とはいい話を聞いたと思い、

早速そちらをやってみることにしました。

 

屋号も『太洋研開』から『パシフィック・デンタル・リサーチ』という

オシャレな名前に変更しました。

さらに、「医療用具輸入販売業」という国の業許可も取り付けました。

これは、当時なかなか取るのが難しい許可だったんですが、がんばりました。

 

まずは、件のアメリカの商社を通して、歯を削る金属バー(ドリルの先に付ける部品)を輸入。

紙の上に用具を並べ自分で写真を撮り、

手書きで作ったDM200部をまずは大阪へ打ちました。

1985年の暮のことでした。 

 

価格は他社の2分の1。なんと3件のリピートが!

こりゃいいぞ、と調子に乗ってDM発送を全国に広げました。、

DMも手書きから印刷に。ここぞとばかりに大攻勢をかけました。

 

販売量が増えて喜んだのもつかの間、次は品質が悪いとクレームの雨あられなのです。

輸入先はそこしか知らないので、変えるわけにもいかないし。

困った私は、商社にずいぶん苦情を言いましたが、次の入荷でも、その次の入荷でも直らないのです。

商社も困りはてたようで、最後には直接メーカーとやりとりしてくれ、と見放されてしまいました。

 

そこで、アメリカのメーカーに、テレックスで品質向上を要求しました。

当時は、Eメールはもちろんのこと、ファックスもアメリカでは普及していませんでした。

テレックスとは海外用の電報のようなものでしたが、文章のやり取りではなかなかラチがあきません。

困ったを通り越しシビレを切らした私は、

アメリカ人の通訳を雇い直接メーカーへ品質の向上のための電話をすることにしました。

 

すると…通訳の方曰く、

彼らはアメリカ人のふりをしたイラン人だと言うのです。

そして、相手には品質向上などさせる気などなさそうだ、とも。

ずっとダマされていたのです。

 思わず、通訳の手から電話機を取り上げ、

「おみゃあさんとこ、

  ええ加減な製品ばっか作っとったらアカンに」

と抗議したのですが、英語どころか名古屋弁でまくしたてたのですから、

きっと伝わらなかったような気がします。

 

そのメーカーとは間もなく縁を切りました。

初めて輸入した時から丸2年がたっていました。

 

筋が通っていることを相手に要求して、

相手が「わかった」と言ったとしても、本当はやる気なんかない。

そんなこともあるのだと、私は外国人との2年間の取引を通じて身につけたのでした。

 

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ハラジョーな人生|1987年〜(2/3) 2009年06月18日

 

さて、見事に仕入先をなくした私。

でも注文は入ってくる。

ボーッとしているワケにもいかず、

2ヵ月後にドイツで行われるI.DS(international dental show)という

歯科材料の見本市を見に行きました。

1987年のことです。

なんと、そこでスイスのメーカーと取引できる話がついたのです。

嬉しさのあまり、ついでに観光でもしようと

ドイツやイタリアを4000キロも走破しました。 

 

そして、スイスとの取引にめどが立った私は調子に乗り、

その秋には会社を株式会社に

(名前はパシフィック・デンタル・リサーチの頭文字をとってP.D.R.)したのです。 

 

(株)P.D.R.は、スイスから仕入れたダイヤモンドバーをきっかけに、

その後もマスクやグローブなど取扱商品を少しずつ増やしていきました。

取扱商品を増やし、ダイレクトメールを発送する。

この繰り返しが5年ほど続きました。

 

そして、1992年。

当時は、全国的に通販をしている同業は3社ありました。

彼らとの差別化を図るため、

他がイヤがって取り扱っていない製品を扱うことにしました。

 

そのひとつが石膏です。

石膏はカサが張るは重いはで、通販には不向きに違いありません。

でも、他がやっていないのですから、売れるに決まっている。

「医療用具製造業」という国の許可もとり、歯科用石膏を開発したところ、ヨミ通りしっかり売れました。

しかも、加工工場を増設して販売にもテコ入れしました。

私なりに勝負を賭けたのです。

 

そのころからです。

これまでの出来事がウソのように会社がうまくまわり始めたのは。

 

年商がようやく1億円を超えました。

お客様からは安いし品質も良いと言われるようになりました。

不景気で、歯医者さんも価格に敏感になってきたようでした。

不景気のおかげで売上が上がったなんて不謹慎ですが、

私、不景気ありがとうと言いたい気持ちでした。
 

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ハラジョーな人生|1987年〜(3/3) 2009年06月18日

 

国内のメーカーも私たちの存在を無視できなくなってきたようで、

この頃には製品を売ってくれるようになりました。

問屋からの圧力を受けながらも

「P.D.R.さんは売ってくれるから」と言ってくれたのです。

メーカーさん、それは正しい選択だ。

 

1万件の顧客を持つまでになりました。

「午後2時までのご注文は当日発送」を売りにしていた私たち。

手作業ではテンテコマイしてしまいますから、受注管理システムを導入しました。

商品管理・顧客管理はバッチリこれでOK。

金払いの悪いお客さんもバッチリわかるシステムにしましたから、

支払方法は商品代金引換のみから、郵便振込や自動引落しなど

後払いも受けられるようになりました。

 

当時のポリシーは「売れるものしか扱わない」でした。

だから、取扱い品目は100種類しかありませんでした。

たぶん、日本一取扱い品目が少ない材料屋だったでしょう。

 

ダイレクトメールだけでなく、FAXでの案内も始めました。

「こんな商品も始めました」というタイムリーな製品情報はもちろん、

新しい技術の紹介なども載った広報物を顧客に送信したかったのです。

この広報物づくり、カリスマを目ざしていた頃の修行や、

業界紙に記事を書いていた頃の知識がとても役に立っています。
 

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