終戦記念日を前にして

制作の竹内が送り致します。

 

8月15日で戦後70年目を迎えます。
私の母親の兄は戦中生まれで、以前、幼い頃の記憶を私に語ってくれました。

 

私の実家は愛知県の知多半島にあります。70年前、知多半島の半田市には中島飛行機半田工場があり、海軍の飛行機を作っていました。
日本が降伏する22日前に、初めて半田と名古屋に爆撃が行われました。
空襲警報が発せられて防空壕に逃げこみ、遠くで聞こえる爆撃音におびえながら伯父は母親に抱きついていたそうです。爆撃が終わり夜になると、北の空と東の空が炎で赤く染まっていたといいます。
翌朝、伊勢湾に面する長浦海岸に行くと大量の薬莢が海岸に落ちており、油の焦げた匂いが今でも鼻の奥に残っているといいます。

 

私の祖父と祖母は再婚同士で(祖父は病気で妻を亡くし、祖母は戦争で夫を亡くしました)互いの連れ子が4人ずつおり(男子5人、女子3人)、10人の大家族。(戦争の思い出を語ってくれたのは5男の伯父です)
家族とはいっても所詮は他人の8人の年頃の男子と女子が突然同居することになったわけで、時代の風潮もあり、男子と女子の会話はほとんどなかったそうです。
そんなある日、祖父の連れ子の長男に召集令状が届き、出陣することになりました。
近くの神社で壮行会を行い、神社の坂道の沿道で家族が見送る中、凛々しい顔で長男は兄弟の前を通り過ぎていきました。しかし、しばらくすると半泣きの顔で家族の前に戻り「はるちゃん!(祖母の連子の長女の名前)家族を頼みます」と言い、走り去っていきました。2人の会話は、これが最初で最後だったそうです。

 

当時壮行会を行った場所は招魂社(護国神社)になっています。その神社の近くの寺には、合同戦没者慰霊碑と戦死した方々の数多くの墓石があり、毎年8月15日には線香の煙が慰霊碑周りを白く包み、蝉の声がなんとも悲しく聞こえる場所です。

 

神社は今も変わりなく私の町の氏神様として祭られており、神社から下る沿道もそのままです。私は69年前ここから旅立った青年たちの心の中を察する事も想像する事もできません。
今後もこの場所が若者に悲しい思いをさせることのないよう、終戦記念日を前にして祈ります。

 

ちなみに、半田市にあるレンガ作りの旧カブトビール工場社屋は、戦中は中島飛行機の食糧庫として使用されていました。1945年7月15日、アメリカの戦闘機P51によって、半田市内は機銃掃射を受けました。食糧庫も銃撃を受け、その時の弾痕が今でもレンガの壁に残っています。近くにお越しの際はぜひご覧ください。